貴志真由子の葬儀と7回忌はいつ?現在や死因の病気は?Wikiプロフィールも!

貴志真由子の現在

《本記事はプロモーションが含まれています。》

X-JAPANのHIDEさんは、彼の熱狂的なファンである貴志真由子さんという女の子と親交がありました。

HIDEさんはコンサートの打ち上げ会場に真由子さんを呼んで、メンバーやスタッフに紹介していたと言います。

そんな貴志真由子さんは、現在はすでにお亡くなりになってますが、一体どんな病気だったんでしょうか?

そこで今回は貴志真由子さんに注目してみました。

  • 貴志真由子さんのWiki風プロフィール
  • 死因の病名について
  • 葬儀の日程&参列者について
  • 七回忌イベントについて

これらについてまとめます。

 

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貴志真由子さんのWikiプロフィール

名前:貴志真由子(きしまゆこ)
出身地:和歌山県
生年月日: 1981年3月4日
没年月日:2009年9月30日(28歳没)

 

貴志真由子さんは和歌山県に生まれ、子どもの頃は少林寺拳法を習うような活発な女の子でした。

小学5年生になった頃、横になる時間が増えたことでお母さんが異変に気づき病院に連れて行きました。

その後 1991年12月頃から入院することとなり、原因不明のまま、思い通りに言葉が話せなくなって足腰が弱っていきました。

そして入院から約1年が経った1993年1月に、GM1ガングリオシドーシスという細胞が異常を引き起こす、世界で23例目の難病ライソゾーム病であることが判明。

医師からは20歳まで生きるのは難しいと告げられてしまいます。

 

真由子さんは入院しながら小学校を卒業し、和歌山市内の中学校へと進学が決まります。

通学できるか不安はありましたが、病状はゆっくり進行して今すぐ悪化するわけではなかったので、中学校へと通うことになりました。

しかし辛い闘病生活は続き、集団生活の不安から登校拒否が続き不登校となってしまします。

闘病しながら、友達との集団生活に馴染むのはとても大変なことですよね。

 

そんな時に貴志真由子さんの支えとなったのが、X-JAPANでした。

貴志真由子さんがたまたま姉の部屋に置いてあったX-JAPANのCDを聞いたことがきっかけで、hideさんの熱狂的なファンになったのです。

 

真由子さんは中学3年生の頃に『メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパン』という難病の子ども達の夢を叶える団体に加入して、hideさんに会うことを熱望しました。

真由子さんは延命治療としてお姉さんの骨髄を移植する手術を受けることになっていましたが、治療を受ける前に、自分の夢を託す形でhideさんに会いたいと話したのです。

当初は真由子さんの夢が実現するとは、誰も思っていなかったそうですが、hideさんは会うことを快諾。

1995年の大晦日に予定された東京ドームでの公演に招待することになりました。

 

そこでhideさんは2つのプレゼントを用意してました。

一つは一緒にプレイできるかもしれないと考えて『X JAPANのセガサターン・ゲーム』。

もう一つは『hideモデルのギター』でした。

本当はすぐ弾けるようにとキーボードにしたかったそうですが、手配が間に合わなかったそうです。

 

真由子さんもこっそり準備しておいた手編みのマフラーをhideさんにプレゼントして、2人は打ち上げ会場へと向かいました。

余命宣告をされていた真由子さんでしたが、hideさんに会ったことで奇跡的に病状が良くなったそうです。

主治医の先生が「hideさんは真由子ちゃんの特効薬だ」と驚いたと言います。

 

12歳の頃から、自身が亡くなるまでの15年もの間、hideさんの一途なファンだったことになりますね。

真由子さんが人生で最も影響を受けたのがhideさんだったんですね。

 

貴志真由子さんの現在や死因の病気は?

貴志真由子さんは、『GM1ガングリオシドーシス』という細胞が異常を引き起こすライソゾーム病という、世界で23例目の難病を患い、当時は医師からは20歳まで生きるのは難しいと言われてました。

ライゾーム病の症状としては、バランスの欠如、全身性の麻痺、接触や音に対する過剰反応、歩行・起立不能、視力障害、全身へと広がる筋緊張などがあげられます。

 

貴志真由子さんはもともと明るくて活発な女の子でしたが、小学5年生頃から横になる時間が増えてお母さんが異変に気づいたそうです。

病院に連れて行きましたが、最初は病名も分からないまま入院することとなります。

原因が判明しないまま次第に症状が現れ、思い通りに言葉が発することもできなくなってしまいます。

 

1996年3月の当時15歳の時には骨髄移植を受けましたが、免疫不全で危篤状態に陥りました。

もうダメかと周りが諦めかけましたが、その後に奇跡的に危篤状態から脱出し、1996年9月には退院できるまでに回復。

2000年の19歳の頃にはテレビに出演し、言葉が発するのは難しいながらも会話をしている様子が映っていました。

 

2005年には、貴志真由子さんのお母さんが地元の和歌山で『レモネードカフェ』をオープンし、XJAPANのファンの間で話題となりました。


家族と一緒にカフェを経営しながらも病状は次第に進行していき、2008年には喋ることもできず、ほとんど体が動かせなくなりました。

その翌年の2009年9月30日に、貴志真由子さんは和歌山市内の病院で肺出血による呼吸困難のため亡くなりました。

28歳の若さでこの世を去りましたが、余命宣告よりも8年以上も長生きされています。

これはhideさんと出会った影響力が生きる力を与えたことには間違いないでしょう。

 

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貴志真由子さんの葬儀はいつどこで行われた?参列者は?

2009年9月30日に貴志真由子さんが亡くなられ、10月2日の午後7時からお通夜、10月3日の午後2時から告別式が和歌山市内にある吹上ホールという場所で行われました。

喪主を務めたのは父親の政人さんです。

真由子さんが亡くなったことをhideさんの事務所の方に伝えたら、東京の事務所を閉めてスタッフ全員が和歌山まで訪れたそうです。

 

さらには、事務所側が「真由子ちゃんは僕たちの仲間だから皆に知らせます」と亡くなったことを音楽業界にFAXで流しました。

そのことがきっかけで、お葬式には各関係者からたくさんのお花が届いたそうです。

これには貴志真由子さんのお母さんもビックリしたと語っていました。

 

お葬式には、事務所の方以外のもX JAPANのメンバーのPATAさんや、hideさんのツアーメンバーでもあるI.N.Aさんも来てれたとのことです。

会場にはお花以外にも、hideさんの写真など多くのものが飾られていたことでしょう。

事務所の方が「真由子ちゃんは仲間」と言うほど、hideさんは貴志真由子さんのことを常に気にかけていて大切な存在だったということですね。

さらには、周囲もhideさんと貴志真由子さんの関係を大切にしていたのが伝わってきますね。

 

貴志真由子さんの7回忌イベントはいつどこで行われた?

2015年10月10日・11日に、貴志真由子さんの7回忌が行われました。

hideさんのファンにも参列してもらえるように、和歌山の『レモネードカフェ』で何かできないかと家族で相談していたそうです。

『レモネードカフェ』の2階ではロックの映像などを楽しむことができ、定期的にミニライブも行われています。

 

この2階でよくライブをしているX JAPANのローディーを長きにわたって務め、YOSHIKIさんとの関係も深い『我孫子神音会』のメンバーGEORGEさんに相談したところ、「和歌山だとスケジュールが合わないかもしれないから、千葉のライブハウスでやろう」と提案し、みんなに声をかけてくれたそうです。

そこで千葉県柏木市にある『柏PALOOZA』というライブハウスで2daysに渡り『真由子ちゃん7回忌イベント』が行われました。

各ロックバンドが集結し、PATAさんは2日間、LUNA SEAのJさんやSUGIZOさんやRYUICHIさんも出演されました。

また、YOSHIKIさんやGLAYのTAKUROさんはビデオメッセージをくれたそうです。

たくさんの来場者もあって『真由子ちゃん7回忌イベント』は大いに盛り上がりました。

 

hideさんの周囲の人々がこれだけすぐに動いてくれるとは、hideさんが亡くなった今でも貴志真由子さんを大切にしていた意志は周りに引き継がれているということですね。

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