植村直己(冒険家)の経歴や高校大学はどこ?妻や子供などの家族についても

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こんにちは。あこぽんです。

5大陸最高峰登頂や、
北極圏12000キロを犬ぞりで走破したり‥と
数々の偉業を成し遂げた
世界的冒険家の植村直己さん。

 

世界の氷河を見たいがために、
所持金わずか4万円だけを持って旅に出たり!

よく考えると破天荒そのものですけど、
その生き方はなんとも興味深いものです!

 

今回はそんな植村直己さんに
ついてくわしく見て行こうと思います。

・植村直己さんのプロフィールと経歴
・奥さんや子供など家族について

これらについてまとめています。

それでは見て行きましょう!

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植村直己さんのプロフィールや経歴

名前:植村 直己(うえむら なおみ)
生年月日:1941年2月12日
出身地:兵庫県城崎郡日高町(現豊岡市)
失踪:1984年2月13日(43歳没)
失踪場所:アメリカ合衆国 アラスカ州マッキンリー山中
現況:行方不明(認定死亡)
出身校:明治大学農学部卒業
職業:登山家、冒険家

 

兵庫県城崎郡(今の豊岡市)で
農家の7人兄弟の末っ子として生まれました。

直己の名前の由来は、
直の文字を先祖からもらい、

巳年に生まれたことから
直巳と名づけたそうです。

 

‥がしかし!

町役場の担当者が誤字で登録しまって
直己の字になったそうですね。

人の名前を間違って登録してそのままって

今では考えられませんね^^;

しかし、本人は「直己の方がかっこいい!」
気に入って名乗っていたそうです!

 

そんな直己さんは地元で育ち、
兵庫県立の豊岡高等学校を卒業します。

その後、1年間ほど会社勤務し、
1960年に明治大学農学部へ入ります。

そこで山岳部へ入部して登山にハマり、

その山岳部の仲間からアラスカ旅行で
氷河を見たことを聞き、
海外の山に憧れを持つようになります。

 

大学卒業後に就職試験に失敗してから
さらに異国の地へのあこがれは増すばかりの直己さん。

『ヨーロッパアルプスの氷河を見たい』
と思うも、資金が足りません。

 

そこで周囲の反対を押し切り、
アメリカで資金を貯めようと
船に乗り単身ロサンゼルスへ渡ります。

・英語も分からない
・現金は渡航費の4万円のみ

という驚きの状況でアメリカへ渡ったというので、
植村さんの心の強さに感心します。

「ヨーロッパ・アルプスの氷河が一目見たかったから。」

直己さんのまっすぐな心に胸打たれますね!

 

しかし!
苦労して渡米したにも関わらず
不法就労だった植村直己さん。

現地で捕まり、アメリカにはいれなくなり、
フランスへ向かうことになりました。

そしてモルジヌのスキー場で働き、
資金を稼ぎながら登山活動の拠点とします。

 

そこで持ち前の幸運と努力により
どんどん前進していきます。

◆著名な冒険実績◆

1970年‥世界初五大陸最高峰登頂
1978年‥単独北極圏到達
1984年‥世界初マッキンリー冬期単独登頂

 

1984年2月12日の43歳の誕生日に
世界初であるマッキンリー冬季単独登頂を
成功させましたが、

その翌日に下山途中の交信以来、
連絡が取れなくなり、消息不明となっています。

 

その3日後に小型飛行機で
マッキンリーを捜索したところ、

植村さんらしき人を発見しましたが
天候が悪かったため救出できず見失ってしまいました。

その後2度ほど植村直己さんの捜索が行われましたが、
未だ植村直己さんは発見されていません。

 

しかし、やがて生存率0%となり捜索を打ち切られ、

最後の交信が確認された
1984年2月13日が植村直己さんの命日となりました。

享年43歳という、早すぎる一生を終えました。

 

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妻と息子や娘さんはどんな人?

植村直己さんには最愛の奥さまがいます。

お名前は公子さんで、
直己さんより年上の姉さん女房です。

馴れ初めは公子さんが働いていた
トンカツ屋さんに植村直己さんが
来店し、ひとめぼれしたそうです。

 

2人が結婚したのは1974年5月18日で、
植村さんが33歳のときでした。

 

当時、植村直己さんは結婚直前まで

ヒマラヤのダウラギリに遠征偵察隊として
出かけていました。

そして帰国したあとすぐに、バタバタと挙式をすることに。

 

しかし、冒険家として活動する植村直己さんは
新婚生活もゆっくり過ごすことなく、
結婚から約半年後には
日本からグリーンランドへ向かい、

年の瀬も迫った12月末頃には
西海岸のケケッタを出て一万二千キロの旅が始まりました。

もう奥さんとしては茫然とするしかないような
成り行きですよね^^;

 

1974年に結婚して1984年に
マッキンリーに行ったきりになるまでの10年間で、

2人が一緒に暮らしたのは
半分の5~6年間ほどだったそうです。

 

そんな植村直己さんですが、

公子さんとの結婚生活にはこんなエピソードがあります。
東京にいるときはいつも明るく陽気な性格で
怒った姿を見せなかったそうですが、

月に1回ほど、ささいなことで
急に怒りが爆発することがあったと言います。

くまきちくん
ささいなことって一体どんなことだろう?
パン子さん
『夢の軌跡』という書籍によると、冷蔵庫のなかに残っているはずのものがなかったりすると、公子さんを問い詰めて、2~3日怒りがおさまらないんですって。

 

もちろんその受け止め役は妻の
公子さんだったそうです。

そして怒りが吹っ切れると、
急に我に返って深刻な様子で
怒ったことを謝るのだそうです。

 

普段おとなしい植村さんが怒るということは、
それだけ公子さんに対してすべてをさらけ出して、

頼りにしていたということかもしれません。

 

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そして公子さんの話によると、

結婚してから少しずつ外にも
怒れるようになってきたそうで、

それからだんだん自分の気持ちを出せるようになったそうです。

くまきちくん
冒険家となると、いつも命の危険と隣り合わせ。急に日常生活で気持ちが爆発してしまうくらい気を張って、進んでいるということだよね。

 

ちなみに植村直己さんの奥さまである
公子さんについての情報はありますが、

子どもさんについては何も語られていないので
おそらくお子さんはいらっしゃらないと思います。

結婚生活もほとんど一緒に過ごさなかったので、
無理もないかもしれませんね。

 

くわしくはこちらの『夢の軌跡』に
掲載されています↓

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まとめ

 

・植村直己さんの奥さまは植村公子さんで、夫の良き理解者だった。

・お子さんはいなかった。

・植村さんは、1984年2月12日のマッキンリー登頂達成後に消息不明となっている。

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3 件のコメント

  • 植村直己さんの記事をお書きくださりありがとうございます。
    先日映画をみて植村さんの軌跡に深く感銘を受けました。たいへん参考になりました。ありがとうございます。

    • この度はていねいなコメントを頂戴し、ありがとうございます。

      植村直己さんの生き方を見ると、日々の生活に追われて、自分のやりたい事を諦めていないかなと考えさせられます。

      いつまでも子どものような純粋な心を持ち続けたいものですね。

      • 義祖母は私にとてもやさしい方でした。よく直己さんの話をしてくださいました。私の聞く限りお子さんは居ません。甥っ子さんが山登りをされていて、甥っ子さんには「山登りはやめといた方がいい。」って言っていたらしいです。うちの子も今、合格した大学に「暇だから自転車でいってみようかな?」とか言ってます。
        自宅兵庫県ですが、山口までって・・・。冒険気質は植村家の血ですかね。

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