尾畠春夫の妻や子供など家族はどんな人?職業や生年月日などの経歴も

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こんにちは。あこぽんです。

今、日本各地の被災地の支援で大活躍を遂げ、
スーパーボランティア隊員として
世間から注目を集めている尾畠春夫さん。

山口県の周防大島で2歳の男の子の命を助けたり、

東日本大震災では南三陸で
合計500日間ほど支援にあたったという
ボランティアの鑑のような方です。

 

その活動実績以上に注目を集めているのが、

尾畠春夫さんのボランティアに対する姿勢と心構えに
周りから感動の声が上がっています。

SNS上では尾畠春夫さんのファンクラブが
設立されていたり、

全国に尾畠春夫旋風が吹き荒れていますね!

 

今日はそんな尾畠春夫さんは、
どんな方なのか私生活についてもせまっていこうと思います。

・尾畠春夫さんのプロフィールと経歴
・職業について
・ご家族はどんな人なのか
・ボランティア活動での名言

これらについてまとめていこうと思います。

それでは見ていきましょう!

 

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尾畠春夫(おばたはるお)さんのプロフィール&経歴と生い立ちについて

名前:尾畠 春夫(おばた はるお)
出身地:大分県国東半島
生年月日:1939年12月生まれ

 

大分県の北東部に位置する国東半島で生まれ、
杵築市で育った尾畠春夫さん。

父は下駄職人で、母は専業主婦。
春夫さんは7人兄弟の4番目の子どもでした。

 

しかし、お母さんは春夫さんが小学5年生のときに
41歳という若さでこの世を去ってしまい、

一人で7人の子どもを育てることになったお父さんは
下駄が売れないためにヤケ酒に走って
毎日家庭内は大変な状況だったそうです。

 

家計が大変な状況だったため、
春夫さんは小学5年生で親元から離れ、
一人で初めて農家に奉公に出されたそうです。

そのため学校にはあまり通えず
中学校は4か月ほどしか行けませんでした。

そんな生い立ちにも関わらず、
今春夫さんは自分の父親に感謝しているそうで

「そのときの奉公の経験が今の宝になっている」

そう思って過ごしているそうです。

くまきちくん
考え方が純粋でプラス思考だよね!

 

そして中学校を卒業したあとは、
お姉さんの紹介で別府市の魚店で働くことになりました。

今まで貧しい生活を余儀なくされていた春夫さんは
魚店さんに就職したときに食事であらの煮つけが
出たとき「こんなうまいものがあるとは!」と驚いたそうです。

その別府市の魚店で3年間修業したあとに
山口県下関市の魚店で3年間ふぐの勉強をしました。

その後に兵庫県神戸市の魚店で、
4年間ほど魚の切り方や
お客さんとのコミュニケーション術を学んだそう。

 

当時の春夫さんには夢があり、

「10年修行したら魚店を開業しよう。」

そう思っていましたが資金が足りず、
開業資金を用意するために、急遽上京して、

飛び込みで鳶と土木の会社に採用をお願いしました。

くまきちくん
気迫も行動力もすごい!

その会社で根性を出して頑張った姿が認められ、
現場監督になるよう勧められたそうですが、

春夫さんは夢を叶えるために大分へ戻る道を選びました。

 

そしてあとでもご紹介しますが、
奥さまと結婚して自営業で鮮魚店オープンに至りました!

お店は繁盛していましたが
春夫さんには新たなビジョンがあり、

”65歳になったらお店を閉店して自分の好きなことをやろう”

と決めていたんですって。

そんなことから、
春夫さんが65歳の誕生日のときに鮮魚店は閉店しました。

 

そして今のボランティア活動や趣味の登山を
楽しむ日々を過ごしているということなんですね。

 

ちなみに春夫さんは鳶職時代の経験が
被災地でのボランティア活動に役立ったと語っていて、

被災した方の自宅から
ご家族の肩身の琴を取りに行くことができたそうです。

フットワークの軽さは、肉体労働時代の経験の賜物でもあるんですね。

 

そんな春夫さんは、今は年金暮らしをしています。

春夫さんの年金額を聞いて少し驚いたのですが、
なんと国民年金が月額5万5千円なんですって。

この金額で日々生活して、
もちろんボランティアに出かけるときの
交通費や食事代も自分持ちなので、

年金のなかからやりくりするそうです。

くまきちくん
ボランティアって、当たり前だけど無給なんだよね‥。ボランティアの方の気持ちを考えると胸がいっぱいになっちゃう。。

もちろん贅沢は言ってられないので、
被災地にボランティアに出かけるときは
パックご飯と袋のインスタントラーメンを買い込んで
現地入りするそうです。

なんだか感動を通り越して、胸が痛くなりますね‥。

被災地での寝泊まりは周りに迷惑をかけないよう、
軽ワゴン車の後部座席にゴザを敷いて寝るんですって。

 

そんな尾畠春夫さんは
40歳のときに腸捻転を起こしてから

健康には気を遣っていて、
野草を茹でておひたしにして食べたり
体に良いものを摂るよう意識しているそう。

桑の葉、たんぽぽ、オオバコ、ドクダミ、ヨモギなど‥

また、このときから登山を始め、

北アルプスや富士山に登り、

なんと!

鹿児島県の佐多岬から北海道の宗谷岬まで徒歩で踏破した経験もあるんです。

地図上で見てみると直線距離で
1,880kmほどもありますね!

もちろん直線距離なので、人の足で歩いていけば
もっともっと距離はあるでしょうね。

 

それに加えて、健康のために毎日8kmほどジョキングをして
体力づくりに努めているそうですよ。

そんな健康的な生活と体力づくりが功を奏したのか、

保険証はもうかれこれ11年ほど使ったことがないんですって!

驚きですよね。

 

こういった日々の体力づくりが
被災地でのボランティア活動に生きているんですね。

 

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妻や子供はいるの?

尾畠春夫さんは結婚していて、
奥さんと48歳の息子さん45歳の娘さんがいます。

 

奥さんとの馴れ初めは
別府市の魚店で修行していたときのことで、

奥さんが春夫さんの3つ年下で中学1年生の頃でした。

奥さんは春夫さんの修行する魚店の向かいにある
貝専門店の娘さんだったんですって。

初めて奥さんを見たときから

ビビっとくるものがあった春夫さんは、

1か月の給料200円のうち、
100円だけは自由に使って、
残りの100円は結婚するために貯金していたそうです!

若いのに堅実ですよね。

 

その奥さまと結婚したのは、
とび職の仕事を終えて大分へ戻った
1968年4月のときでした。

そしてその年の11月に別府市で
自身が経営する鮮魚店「魚春」をオープンさせました。

ちなみに魚春鰆(さわら)が好きなので、魚春と命名したそうですよ。

 

鮮魚店は繁盛する時期もあれば
大分県の水銀問題で売り上げが低迷することもあったり‥と
まさに山あり谷あり‥でしたが、

お店がピンチのときは料理上手の奥さまが
お惣菜を作って販売し、お店を支えたのだとか!

そんなこともあって春夫さんは、
”嫁さんあってこその自分なんだ”と語っておられますね。

 

そんな春夫さんと二人三脚で歩いてきた奥さまですが、
ちょっと心配なエピソードもあるんです。

奥さまは、5年前に「旅に出かけたい」と言って
一人で出て行ったまま帰ってこないそうです。

くまきちくん
えっ!探さなくていいのかな!?

”自分の人生は自分の好きなように生きればいい”という信条を持つ春夫さんは、

奥さんは自宅のカギを持っているし、
いつでも帰って来れる環境にしてあるから良いと思っているそうです。

春夫さんは携帯電話を持たない主義ですし、
連絡が付かないとなるとちょっと心配ですよね^^;

 

春夫さんの息子さんは公務員で、市役所に勤めています。

息子さんに当時経営していた魚店を
継いだ方がいいか聞かれたそうですが、
春夫さんは自分の好きな道に進むよう促したそうです。

息子さんは責任感が強いタイプなんですね。

春夫さんはいつでも「自分の人生は自分で決めて欲しい」と思っているんですって。

“国民の義務さえ果たしていればOK”という考えがあり、
とても寛大な心をお持ちですよね!

 

そんな春夫さんには5人のお孫さんがおり、
一番上のお孫さんとの間でこんな心温まるエピソードがありました。

春夫さんが魚屋さんをやめて1年後くらいの頃。

当時高校生だったお孫さんが急に訪ねて来て、
真剣な顔つきでこんなことを話しました。

「じいちゃん。タバコやめなよ。」

このとき春夫さんは、ピースという銘柄のタバコを
1日2箱も吸っていたそうですが、

もう60代になっていた春夫さんを気遣って、
体力が急激に落ちるから
やめるよう強く促されたそうなんです。

 

禁煙って本当にむずかしいですよね。

筆者の夫も1日1箱を10年間ほど喫煙してきた
ヘビースモーカーでしたが、

ある日急に職場で喫煙禁止になったことから
かなり苦労して辞めていました^^;

やはり禁煙を強いられてイライラしたり、
よっぽど自分がやめる!と思って断たないと
難しいものですよね。

 

春夫さんは、お孫さんにそう言われて
とてもうれしく思い、その日に即タバコを処分したそうです。

パン子さん
そんなにスパっと辞めれるなんて、すごいわ!

 

そのお孫さんは、春夫さんの影響で登山をやっているんですって。

お孫さんから想われているって幸せなことですよね。

これも尾畠春夫さんの人となりが素晴らしいからでしょうね。

 

尾畠春夫さんの名言まとめ

自分の好きなおさけを断ったり、
自分の生活をも犠牲にしてまで
ボランティア活動を行う春夫さんの姿には感化されますよね。

 

尾畠春夫さんのトレードマークの赤い作業着と
ねじりハチマキには意味があり、

元気を出すように自分を奮い立たせるためと、

山で捜索するときに目立つようにするため

また、派手な格好をすることで、
自分は泥棒ではないよ~と周りに知らせる
意味も込められているんですって。

パン子さん
自分がボランティアとして活動することに、きっと誇りを持っているのよね。

 

また、ボランティアは被災者に
根ほり葉ほり聞かないことが重要で、

被災者が今どういう状況なのか考えて
その気持ちに寄り添えることを一番に考えているそうです。


・自宅が流されてしまったかもしれない
・家族が亡くなったかもしれない
・これからの生活を考えて途方に暮れているかもしれない

そんなときに尾畠春夫さんが聞くことは

「おけがはありませんでしたか?」

この一言に尽きるんだそうです。

 

そして話を聞いて欲しい人がいれば徹底的に付き合う。

これが尾畠春夫流のボランティア活動なんですね。

 

また、春夫さんはボランティア活動中は、
被災者の気持ちを考えて
お風呂は極力入らないと決めており、

お風呂にゆっくり浸かるのは、

ボランティア活動が終わって
”地元大分県に帰ったときの楽しみ”と決めているそうです。

久しぶりの温泉に入るときは
3~4時間ほども浸かることもあるんですって!

くまきちくん
そこまでガマンを決め込んでボランティア活動しているなんて‥!

 

そんな尾畠春夫さんの名言をまとめてみました。

山口県の行方不明の男の子を
捜索からわずか20分で発見して助けた日は、
「今日は見つけるぞ!」という気持ちで臨んだそうです。

春夫さんの意気込みを見ていると、涙が出てきますよね。
強く想うことの大事さを教えられます。

必ず助けるんだ!というものすごい気迫を感じます。

 

「私は被災地に行ったら”暑い”とは絶対に言わない。
もし自分が被災者であったならば、どう思うのか。
ボランティアさせていただいているという立場を忘れてはいけません。」

”ボランティアさせていただいているんだ”って

胸に刺さる言葉です。

 

そして春夫さんの座右の銘は、

「かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め」

どうしても人って
見返りを求めてしまうところがあると思うんですけど、

欲を出さずに無心で世間に奉公し続ける
尾畠春夫さんを見なわなくてはいけないですね。

忘れがちになっている謙虚な心も
今一度思い出したいと思います!

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