小田貴月の顔画像と年齢プロフィールは?高倉健との馴れ初めやなぜ養女になったの?

《本記事はプロモーションが含まれています。》

今は亡き、名優の高倉健さんと17年間生活をともにし、
唯一最期を看取ったと言う養女の小田貴月(たか)さん

養女という間柄ではありますが、
高倉健さんが最後に愛した女性だとされています。

そんな貴月さんが健さん没後5年にして、
健さんの私生活や2人の出会いについて記した本を出版し、
話題を集めていますね。

 

初めて聞いたとき、
『養女』という間柄に戸惑いを感じたのですが、
そもそも小田貴月さんはどんな方なんでしょう?

そこで今日は、小田貴月さんに注目していきたいと思います。

 

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【顔画像】小田貴月(おだ たか)さんのプロフィールと経歴

小田貴月

出典:スポニチ

名前:小田 貴月(おだ たか)
本名:河野 貴
出身地:東京都板橋区
生年月日:1964年1月13日
年齢:59歳(2023年10月現在)
最終学歴:千代田女学園短期大学 卒業
過去の職業:女優、タレント、声優、ライター

 

小田貴月さんは
千代田女学園高校在学中に
芸能事務所からスカウトされ、

千代田女学園短期大学に進学して
英語を学んでいましたが、
中退して芸能界入りしました。

高校時代は演劇部に所属されていたようで、
当時から女優志望だったのかもしれませんね。

 

タレントのときは高倉涼子名義で活動していました。

健さんと同じ高倉姓になんだか不思議な縁を感じますね。

 

当時出演していたドラマは、時代劇が多かったようです。

・必殺仕事人Ⅲ お志乃役
・必殺仕事人Ⅴ お小夜役
・遊びじゃないのよ、この恋は
・水戸黄門など‥ 

 

1982年頃からテレビ大阪で放送されていた
パソコンの情報番組『パソコンサンデー』では、
レギュラーレポーターとして出演していました。

こちらはとても人気のある番組だったようで、
ネットで『高倉涼子』と検索をかけると、
『パソコンサンデー』と表示されるほどです。

 

また当時のファンの方でしょうか。

『高倉涼子の現在』についても調べられているので、
かなり濃いファンがいたことが伺えますね!

小田貴月さんが番組に出演していたのは、
1982年~1989年の7年間ほどだったようです。

 

その後は、本名の河野貴名義でジャーナリストや
テレビ局のディレクターとして活動しています。

このときにライターとして取材しているときに
偶然 高倉健さんと出逢うことになります。

元女優や雑誌ライターとして活動してきた小田貴月さんは
健さんが亡くなるおよそ1年前に養女になりました。

 

高倉健さんと小田貴月さんの馴れ初めは?

高倉健さんと小田貴月さんの2人出会いは、
1996年のことです。

映画『鉄道員』(ぽっぽや)が
1999年に公開されたので、
だいたいその頃の話になりますね。

 

偶然お互いが仕事で出かけていた香港での出来事です。

当時ホテル雑誌のライターをしていた小田さんが、
取材先のレストランで偶然 高倉さんを見かけたそうです。

小田さん
あれ?高倉さんですか?

そう声を掛けたら、
高倉健さんがそこに居合わせたスタッフ全員に
名刺を配ってくれたそうです。

 

その後に香港で取材した雑誌が出来上がったので、
小田さんは名刺の住所にお礼の手紙と雑誌を送りました。

この手紙がきっかけとなり、
2人のあいだで文通がスタートしました。

高倉さんと小田さんの文通はそれから1年ほど続いたと言います。

 

その後、2人はプライベートな話をする仲にまで発展しました。

小田貴月さんは高倉健さんに対して愛情が芽生え、

「伴走者になれまいか-」

こんな思いを抱いたと言います。

この時に高倉健さんとともに生きていくことを決意したそうです。

 

すると健さんは貴月さんにこんな返答をしました。

健さん
僕もいろんな人と出逢いました。でも今は独りです。

生真面目な性格で知られる高倉健さんらしい
シンプルな返事だったんですね。

 

それから出逢って1年後の1997年に
同棲生活をスタートしました。

小田さんは家事全般を担当し、
主に炊事や洗濯などをこなしながら
高倉健さんの身の回りの世話をしていました。

 

2019年に小田貴月さんが発売した
『高倉健、その愛。』(PR)という本にも記されていますが、

小田さんは高倉健さんの日々の健康管理をともに行い、

健さんの夕食作りには1時間半~2時間ほどかけて
食事の6割を野菜、
残りを魚や肉、炭水化物で補うことを心掛けました。

 

また腕や体をぶつけてアザを作らないように
自宅の家具の角を削ったり、
コーナーガードを取り付けて
高倉健さんの俳優生活のサポートに徹していたそうです。

 

「俳優・高倉健」でいるために
私生活からストイックだったという健さんですが、

毎朝定時に体重・体脂肪・血圧
三つの数値を測ることから始まります。

最後まで魅せる体作りへの意欲を失わなかったそうです。

 

高倉健さんにとって
「病気にならない、もらわない」
というのは大原則だったと言います。

ロケの出発前日には持参する薬リストに従って、
まるで薬屋が引っ越すような量を用意していました。

その健康管理を支えた小田貴月さんも
相当大変だったことでしょう。

 

そんなプロ意識の塊のような高倉健さんでしたが、
自宅ではテレビでは見せない
おちゃめな姿を見せることがあったそうです。

ソファの上で気を失ったフリをしたり、
お腹がすいたことを「ペコリン」と表現してみたり
ユニークな一面もあったんですって。

あの渋い高倉健さんからは想像もできませんよね。

パン子さん
それだけ小田さんに心許していたってことだよね。

 

そんな高倉健さん流の感謝の言葉は「バカヤロー」だったそうで、

貴月さんはその日によって違う声色の
バカヤローを聴けるのが楽しみだったそうですよ。

 

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小田貴月さんはなぜ養女になったの?

そんな夫婦同然の生活に大きな転機が訪れたのは、
2013年に小田さんの母親が倒れたときのことでした。

この時、お2人は出会ってから17年ほど経っていました。

 

高倉健さんは急病を患ったお母さんのことを心配してくれました。

母親を看病する小田さんを見て、
健さんは80歳を過ぎた自分のことを
初めて意識したそうで、

何かあったときに
小田貴月さんが病室にお見舞いには来れても、
親族でないと付き添いができない
ということを
初めて知りました。

「じゃあ自分に何かあっても大丈夫なように
書類を出しておこうかな…」と言い始めて、

そこで万が一メディアに知られても
比較的影響が少ないであろう養女として
養子縁組の手続きを取ることになりました。

 

俳優・高倉健のイメージを守りたかった貴月さんは
「自分は黒子でいよう」と思ったようで、

どんなときも健さんにとって
一番ベストの状態にしようと思ったそうです。

そのため養子縁組の書類を出しました。

 

こうして2013年5月に小田貴月さんは
高倉健さんの思いを受け、
妻ではなく養女となりました。

 

高倉健さんを裏側で支えた小田貴月さんの存在を
周りで知っていたのは、
貴月さんの母親事務所関係者の1人だけだったそうです。

 

小田さんは今まで健さんと
17年間一緒に暮らしながらも、
一度も旅行したことも外食したこともなかったと言います。

人目につかなように日陰の存在でいたんですね。

2人は愛し合っていたはずなのに、
なんだか少し切なくなってきます‥。

 

しかし、今まで一度だけ2人で外出したことがあったそうです。

それは健さんが2014年に悪性リンパ腫が判明したときのこと。

病院の帰りに初めて健さんに
「一緒に散歩に行こう」と誘われ、
東京の駒沢公園を歩いたそうです。

それが2人で出かけた最初で最後の思い出でした。

 

そんな2人の思い出のなかで
一番印象に残っていることがあり、

それは無くなる2か月前に
自宅で2人でリラックスしていたときに
高倉健さんが紙にこんなことを書き記したんだそうです。

僕の人生で一番嬉しかったのは、貴と出会ったこと 小田剛一(おだ ごういち)

この手紙に今までのすべてが詰まっていますよね。

 

高倉健さん没後に車やクルーザーなどを処分した真相とは?

高倉健さんの死後に
愛車やクルーザーなどを処分し、
自宅が取り壊されたことが
報道により明らかになりました。

なんと高倉健さんの遺産総額は40億円とも言われていますよね。

自宅は当時の2人の愛の巣でもあり、
取り壊すのは気が引けるような気もしますが…。

果たしてなぜ取り壊して処分してしまったのでしょうか?

 

小田さんによると、

高倉健さんが亡くなったあとに
ほとんどの所有物を処分したのは、

健さん自身の遺志だったそうで、
「僕が亡くなったあとは、そうしなさい」
と言われていたそうです。

健さんはプライベートを切り売りしない人で、
とくに自宅に関しては誰にも見られたくないという
強い思いがあったそうです。

そのため健さんの魂が納得するように
すべてを封印することにしたと語っていました。

高倉健さん没後の行動は、
すべて本人の遺志によるものだったのですね。

 

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『高倉健、その愛。』の本を出版した理由について

2019年10月30日に
小田貴月さん著作の『高倉健、その愛。』が出版されました。

小田さんによると、
本の出版は生前の高倉健さんからの宿題だったそうです。

「僕の方が死ぬのは早いはずだから、そうしたら僕のこと書き残してね。」

プライベートは切り売りしないけど、
本を出すのはOKだったんですね。

 

それで健さんの思いを胸に
17年間の誰も知らない高倉健を
1冊の本に残すことを決意されました。

 

高倉健さんが出演した作品と俳優人生について

常に寡黙でストイック。
生涯出演した映画は205本にも及びます。

名だたる数々の賞を受賞するなど、
高倉健さんは「日本映画界最後の主砲」だと言われました。

 

1955年に東映ニューフェイスの2期生として入社し、

演技経験はまったくない無名の新人で、
周囲からは「役者に向いていない」と言われるくらい
当時は落ちこぼれだったそうです。

しかし、任侠映画の『網走番外地 昭和残侠伝』シリーズが大ヒットし、
高倉健さんは人気を不動のものにしました。

 

1976年に東映を退社して以降は
任侠イメージを脱却し、
幅広い作品に出演するようになりました。

1999年公開の映画『鉄道員(ぽっぽや)』では
健さんは自身4度目の日本アカデミー賞 最優秀主演男優賞を受賞しました。

 

そして活躍の場はハリウッドへも広がります。

映画『ブラックレイン』で実直な刑事役を演じ、
世界中から称賛されました。

映画の現場に立ち続けること58年。

生涯で出演した映画は205本となり、
日本を代表する映画スターとなりました。

 

また、私生活では1959年に
歌手の江利チエミさんと結婚するも
12年後の1971年に離婚に至ります。

その後は生涯独身を貫いています。

そして2013年、
高倉健さんは映画俳優としては初の文化勲章を受章します。

俳優生活を送るために、
すべてを捧げた人生だったんですね。

 

まとめ

小田さんは娘として、時には母親のように
高倉健さんのイメージを人生かけて守り抜いた方だったんですね。

2人は同棲中の17年間で
「一度も旅行も外食したことがない」
という話を聞いて、

小田さんは高倉健さん同様に、
我慢強く意志の強い方なんだなと感じました。

それ以上に健さんに対する愛情の深さを感じますよね。

 

今後は小田貴月さんの活動にも注目していきたいですね。

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