ジブリ映画『風立ちぬ』の主人公のモデルとなった堀越二郎は実在する人物であり、享年78歳で亡くなっています。
堀越二郎さんと言えば、映画では、妻の菜穂子が25歳という若さで結核で亡くなっています。
もしこれが実際の描写だとしたら、堀越二郎さんも結核で亡くなったのかな?と思いましたが、実際のところはどうなんでしょう?
そこで今回は、堀越二郎さんの死因の病名について調べてみました。
- 堀越二郎さんの死因の病気について
- 堀越二郎さんのプロフィールと経歴
これらについて見て行きましょう。
堀越二郎さんの死因の病気は肺炎?結核?
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金曜よる9時
☁️☁️☁️✈️☁️ゼロ戦を設計した実在の人物・堀越二郎をモデルに堀辰雄の「風立ちぬ」からも着想を得た宮崎駿監督の大ヒット作✨#スタジオジブリ #宮崎駿監督 #夏はジブリ pic.twitter.com/4Jwl1p8DI1
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堀越二郎さんの死因は肺炎だと言われています。
1982年1月11日に東京の病院で亡くなりました。享年78歳でした。
堀越二郎さんが亡くなったことは、ニューヨーク・タイムズなどの海外の新聞にも掲載され、大きな話題となりました。
いつ頃から肺炎にかかり、病院へ入院していたかなどの詳細は不明ですが、高齢での肺炎ということなので、風邪をこじらせて肺炎へと重症化してしまった可能性もありそうですね。
もしかして肺炎になった原因の一つに、喫煙が理由の可能性もあるのかなと思いましたが、実際の堀越二郎さんは非喫煙者だったそうです。
たしかに『風立ちぬ』では、タバコを吸うシーンが多いのが話題になるほど、堀越二郎さんを含めた男性陣はタバコを吸っていましたよね。
ちなみに話は逸れますが、堀越二郎のもう1人のモデルである原作小説の作者の堀辰雄さんは愛煙家だったそうで、たばこ片手に原稿を書いてる写真が残っていたり、芥川龍之介さんから形見として受け継いだパイプを愛用していたそうです。
堀越二郎の喫煙の描写は、堀辰雄さんの姿が映画に反映されているんですね。
映画『風立ちぬ』は1915年~1945年頃の時代が描かれた作品です。
その頃は、多くの成人男性がタバコを吸っていて、電車には灰皿が設置されていました。
ちなみに『風立ちぬ』で堀越二郎さんが吸っていたタバコの銘柄は『チェリー』でした。
#子供の頃カッコいいと思ったモノ
タバコ『チェリー』のパッケージ pic.twitter.com/9MMeQUAP6F— motoichi (@million7000) January 13, 2021
当時、チェリーの愛煙者は多かったようです。
それほどヘビースモーカーが当たり前の時代だったなんて、今では考えられないですね。
映画では飛行機設計の現場は過酷労働で、繁忙期には自宅に仕事を持ち込んで深夜まで作業する姿が見られました。
実際の堀越二郎さんは1942年の38歳の頃に、過労による病を患い、その年の秋~翌年初め頃まで療養を強いられた過去があります。
ずいぶん体を酷使して、仕事に打ち込んでいたことが分かりますね。
先ほども書いたように、堀越二郎さんは高齢だったため、風邪などをこじらせて肺炎を患い、お亡くなりになった可能性があります。
堀越二郎さんは6人の子宝に恵まれているので、最期は大勢の子供たちに看取られて亡くなったことでしょう。
堀越二郎さんのプロフィールと天才と称された経歴について
昭和を振り返る画像。
『ゼロ戦設計チーム(中央は堀越二郎)』
プロフィールは→https://t.co/p6EkA6CRKj#昭和#歴史#その他#ドラマ・映画化 pic.twitter.com/9YKnhjmUKn— 昭和平成ガイド (@showa_g) August 20, 2021
名前:堀越 二郎
出身地:群馬県藤岡市
生年月日:1903年6月22日
年齢:78歳没(1982年1月11日)
最終学歴:東京帝国大学 工学部航空学科卒業
職業:航空技術者
堀越二郎さんは、1903年6月22日に群馬県藤岡市に生まれます。
小さい頃から飛行機好きで、地元の藤岡中学校を卒業後には、航空機の設計者となるため、日本の近代国家建設のため必要な人材の育成を目的として創設された第一高等学校の理科甲類に進みました。
今で言うところの、東京大学の1~2年生になるそうです。
幼少期から頭脳明晰で、成績は非常に優秀だったのですね。
高校卒業後は東京帝国大学工学部航空学科に進学し、大学在学中に現在の三菱重工からスカウトされて大学を首席で卒業後、そのまま三菱重工に入社します。
その後、最先端の航空機技術を学ぶためにヨーロッパとアメリカに1年半派遣されました。
その時出会ったのが、イタリアの飛行機設計者であるジャン・カプローニ伯爵です。
カプローニ伯爵は、ジブリ映画でもキーパーソンとして登場しており、二郎の少年時代の夢のなかで近眼でも飛行機の設計ができるか不安に思っていた二郎を勇気づけていたのが印象的ですよね!
堀越二郎を飛行機の設計士へと導いたのが彼でした。
カプローニ伯爵は実在したジャンニ・カプロニがモデルです。カプロニ社のイタリア空軍偵察機「カプロニCa.309」の愛称は”GHIBLI”で、これがスタジオジブリの由来となっています。#風立ちぬ pic.twitter.com/hpggVS7KnQ
— キャッスル (@castle_gtm) April 12, 2019
堀越二郎さんは1932年に入社5年で、設計主任に抜擢されます。
1932年に「七試艦上戦闘機」、1934年には「九試艦上戦闘機」、1935年には日本海軍初の全金属単葉戦闘機「九六式艦上戦闘機」として、日本で初めて全面的に沈頭鋲を採用した航空機となり、名機を次々と設計しました。
その頃には、南満州鉄道副総裁の佐々木謙一郎さんの長女である、佐々木須磨子さんとお見合い結婚をして6人の子宝に恵まれています。
↓堀越二郎の妻・須磨子さんのプロフィールは、こちらの記事で詳しく書いています↓
そして、1937年には後の零戦となる十二試艦上戦闘機の設計を行いました。
#今日は何の日
今から82年前(1939年 昭和14年)に
“十二試艦上戦闘機”(後の零戦)が初飛行しました。
“ゼロとドッグファイトを行うな”と米軍から言われる程の圧倒的な機動力,超々ジュラルミン・剛性低下式操縦索などの新技術を詰め込み,終戦まで日本海軍航空隊の主力戦闘機として活躍しました。 pic.twitter.com/xhWBahWO9F— ヴェネラブル (@R63_Venerable) March 31, 2021
戦後には、初めて日本のメーカーが開発した旅客機「YS-11」の設計に参加し、三菱重工業が戦後分割された際には、現在の新三菱重工業に勤務し参与を務めます。
そして新三菱重工業を退社した後は、東京大学の宇宙航空研究所での講師や、東大工学博士、防衛大学校教授、日本大学生産工学部教授を務めました。
1973年11月3日には勲三等旭日中綬章を受賞されています。
堀越二郎さんは根っからの技術者で、日本の戦闘機に零戦という技術革新を起こし、数年の間、現実の戦闘で世界一を維持するという稀有な実績を残されました。
そして1982年1月11日、享年78歳で亡くなりました。
堀越二郎さんの半生は、まさに飛行機作りにかけた人生でした。