黒田長政の兜が鉄板の意味は一の谷の戦いが由来?福島正則と交換した?

黒田長政の兜

《本記事はプロモーションが含まれています。》

大河ドラマ『どうする家康』にて、甲冑姿で登場する黒田長政ですが、

子どもが黒田長政の兜を見ると、

こども
なんか鉄板みたいだね。

と、思ったままの感想を話してくれます。汗

たしかに、なぜ黒田長政の兜は鉄板みたいな形をしているんでしょうか?

ほかにも「ソーラーパネル」や「薄型テレビ」みたいだとか…世間の感想も実にさまざまですが。

 

あれほど存在感のある兜だと、戦のときに目印となってしまい、敵から狙われるんじゃないかと気になりました。

パン子さん
当時は ”武士は目立ってナンボ” みたいな考え方があったみたいだよ。

実際はどうなんでしょうか?

そこで今回は、黒田長政の兜が鉄板型の理由について調べてみました。

 

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黒田長政の兜が「鉄板」の意味は”一の谷の戦い”が由来?

黒田長政の鉄板型の兜は、一の谷形兜と言います。

源平合戦で知られている『一ノ谷の戦い』の鵯越の崖をイメージして作られたと言われてます。

 

源平合戦の屈指の名場面とされるのが、源義経が一ノ谷の戦いでおこなった「鵯越の逆落とし(ひよどりのさかおとし)」です。

源氏の軍勢は、平家が陣を置く福原を2手から攻めました。

正面の生田の森は兄・源範頼が担当、裏手にあたる一の谷の攻撃を源義経が担当することになりました。

 

しかし、源氏の軍勢は平家の守りを突破することがきず、この状況を打開するために義経がおこなったのが「鵯越の逆落とし」です。

源義経が向かった先は、一の谷の背後にある鵯越の崖。

急斜面を馬で一気に駆け下り、平家の背後に攻め寄せって城に火をつける奇襲作戦に出たのでした。

この奇襲を受けて平家は大混乱し、源氏は勝利を収めました。

これが武勇伝として受け継がれたのでしょう。

こうした源義経の武運にあやかろうと、ゲン担ぎとして鵯越の地形が兜の装飾品に採用されました。

急な谷みたいな感じでカーブしているのは、一ノ谷がイメージされていたんですね!

 

くまきちくん
横に広い鉄板風の装飾だから、風圧がすごくて首が痛かったんじゃないかな?
パン子さん
たしかに向かい風が吹いたら、煽られて後ろに倒れそうだし、前向きにエッジが効いてるのもバランス的にどうだったのかも気になるよね。
くまきちくん
もしかして存在感がある兜を好むってことは、周りの武将と比べて身長が低かったのかな?
パン子さん
甲冑の大きさからして、黒田長政はおよそ160~165cmくらいの身長だったと予想されているみたい。
くまきちくん
戦国時代の男性の平均身長が155cmほどとされているので、当時だとやや大きめの体格だったんだね。

 

さらに兜について調べたところ、衝撃の事実が判明しました!

一の谷形兜は金属の素材で相当重かったのだろうと同情しましたが、なんと鉄板に見える部分は 薄いヒノキの板に銀箔を貼り付けたもの でした。

兜の重さは3.1kgだったそうです。

「そんなに重くなかったんだね」と言えると思ったら、それでも結構重い物を被っていたんですね。

 

その後、黒田長政の甲冑と兜は、ほぼ同じ意匠で四男の黒田高政所用として作られていたそうです。

現在は、復元・修復したものが東京国立博物館に所蔵されています。

 

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黒田長政の兜は福島正則と交換した?

朝鮮出兵中に福島正則と黒田長政は些細なことでケンカをする。
その和解のしるしとして、お互いの兜を交換した。

 

黒田長政の一ノ谷型兜は、もともとは福島正則が愛用していました。

なぜ長政の所有物になったかと言うと…

豊臣秀吉からの命令で、福島正則と黒田長政はともに朝鮮出兵に駆り出されていました。

正月の酒宴の席で福島正則は、黒田家の家臣・母里太兵衛(もりたへえ)に呑み比べの勝負を挑みました。

母里太兵衛は「今、禁酒中なので。」と、頑なに断りましたが、「巨大盃の酒を飲み干したら好きな物を取らせる。」と言われたので「飲み干したら日本号が欲しい。」と伝えたのです。

日本号とは、太閤殿下から譲り受けた福島家・家宝の名槍です。

母里太兵衛は巨大盃に注がれた酒を一気に飲み干し、日本号の槍を手に入れて引き上げて行ったのでした。

 

ここからは予想通り…という感じなのですが、翌日 酔いが醒めた福島正則は狼狽します。

「大切な家宝の槍を取られるなんて…もう武士の二言など関係ない!」と言わんばかりに、黒田長政に説得を依頼しました。

しかし、長政は「武士の約束だから」と完全拒否します。

なかなか諦めきれない福島正則と、断り続ける黒田長政。

なかなか話し合いは進展せず、2人の関係は悪化の一途とたどりました。

パン子さん
福島正則は酒の席での失敗が多い人物だったそうです。

 

そんな2人の不仲を解消できるのは、両者の恩人でもある竹中半兵衛です。

しかし、すでに亡くなっていたため、従兄弟の竹中重利がケンカの仲裁をおこなうことになりました。

重利の仲裁によって、両者は無事に和解へと至りましたが、当時は武将同士で贈り物をする習慣があったため、福島正則と黒田長政は和解のしるしとして、お互いの兜を贈り合うことにしたのです。

そこで黒田長政の大水牛脇立兜 福島正則の一ノ谷型兜 のスペアを作って交換したと言われてます。

もともと黒田長政が所用していた水牛の兜はこちら!

水牛の角をモチーフにした兜の由来ですが、当時 ”水牛は聖なる動物”であり、悪を調伏する大威徳明王の乗り物であることから武将に好まれていたそうですよ。

 

一の谷兜は、元々は竹中半兵衛の物だった?

さらに一ノ谷形兜にはエピソードがあり、豊臣秀吉の天下取りを支えた名軍師である竹中半兵衛は、実は黒田長政の命の恩人でした。

長政は幼少の頃に織田信長の人質として、豊臣秀吉のもとで過ごしていました。

織田家の重臣・荒木村信が反旗を翻した際に、様子をうかがいに行った父・黒田官兵衛がなかなか戻って来なかったため、信長は官兵衛が裏切ったと思い込み、息子・長政は処刑を命じられたのです。

この絶対絶命の危機を救ったのが竹中半兵衛でした。

「黒田官兵衛が裏切るはずがない」と確信があった半兵衛は、信長に「処刑した」と嘘の報告をし、自分の居城に長政をかくまいました。

黒田長政にとって竹中半兵衛は命の恩人となったのです。

 

この竹中半兵衛が愛用していた一ノ谷形兜が、彼の死後に福島正則に伝わったと言われてます。

そして朝鮮出兵後に、福島正則の一の谷形兜黒田長政の大水牛脇立兜交換したというわけですね。

くまきちくん
一ノ谷形兜の本当の持ち主は、竹中半兵衛だったんだね。
パン子さん
黒田長政は並々ならぬ想いで、兜を受け取ったんだろうね。

そして関ケ原の戦いでは、お互いに交換した兜を被って戦場に臨みました。

 

一ノ谷形兜にここまで深いエピソードがあったとは。

くまきちくん
「鉄板みたい」って笑っちゃダメだね。

まとめ

  • 黒田長政の愛用する兜は、一ノ谷形兜
  • 源平合戦の一ノ谷の戦いで、源義経が平氏に奇襲を仕掛けた鵯越の逆落とし(ひよどりのさかおとし)」の崖が、兜のモチーフになっている。
  • 一ノ谷形兜の元々の所有者は竹中半兵衛だった。彼の死後に福島正則に受け継がれ、黒田長政の元へ渡った。
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