大河ドラマ『どうする家康』にて、甲冑姿で登場する黒田長政ですが、
子どもが黒田長政の兜を見ると、
と、思ったままの感想を話してくれます。汗
たしかに、なぜ黒田長政の兜は鉄板みたいな形をしているんでしょうか?
ほかにも「ソーラーパネル」や「薄型テレビ」みたいだとか…世間の感想も実にさまざまですが。
あれほど存在感のある兜だと、戦のときに目印となってしまい、敵から狙われるんじゃないかと気になりました。
実際はどうなんでしょうか?
そこで今回は、黒田長政の兜が鉄板型の理由について調べてみました。
黒田長政の兜が「鉄板」の意味は”一の谷の戦い”が由来?
そりゃこんな顔にもなりますよね pic.twitter.com/zi7kit0MRZ
— ヒロアキ on weekends (@Amy_nirvana) October 23, 2023
黒田長政の鉄板型の兜は、一の谷形兜と言います。
源平合戦で知られている『一ノ谷の戦い』の鵯越の崖をイメージして作られたと言われてます。
源平合戦の屈指の名場面とされるのが、源義経が一ノ谷の戦いでおこなった「鵯越の逆落とし(ひよどりのさかおとし)」です。
源氏の軍勢は、平家が陣を置く福原を2手から攻めました。
正面の生田の森は兄・源範頼が担当、裏手にあたる一の谷の攻撃を源義経が担当することになりました。
しかし、源氏の軍勢は平家の守りを突破することがきず、この状況を打開するために義経がおこなったのが「鵯越の逆落とし」です。
源義経が向かった先は、一の谷の背後にある鵯越の崖。
急斜面を馬で一気に駆け下り、平家の背後に攻め寄せって城に火をつける奇襲作戦に出たのでした。
1184年3月20日、一ノ谷の戦いが起こりました。
1180年から1185年まで続いた「治承・寿永の乱」の戦いの一つで、源義経が断崖絶壁から平氏を襲う「鵯越の逆落とし」で有名です。
義経たちは一気に絶壁を駆け下り、平氏軍を襲撃。全く予想だにしない所から攻撃を仕掛けられた平氏軍は敗走しました。 pic.twitter.com/CU1D7rWG7t— RekiShock(レキショック)@日本史情報発信中 (@Reki_Shock_) March 19, 2023
この奇襲を受けて平家は大混乱し、源氏は勝利を収めました。
これが武勇伝として受け継がれたのでしょう。
こうした源義経の武運にあやかろうと、ゲン担ぎとして鵯越の地形が兜の装飾品に採用されました。
急な谷みたいな感じでカーブしているのは、一ノ谷がイメージされていたんですね!
さらに兜について調べたところ、衝撃の事実が判明しました!
一の谷形兜は金属の素材で相当重かったのだろうと同情しましたが、なんと鉄板に見える部分は 薄いヒノキの板に銀箔を貼り付けたもの でした。
兜の重さは3.1kgだったそうです。
「そんなに重くなかったんだね」と言えると思ったら、それでも結構重い物を被っていたんですね。
その後、黒田長政の甲冑と兜は、ほぼ同じ意匠で四男の黒田高政所用として作られていたそうです。
今週の #どうする家康 で #黒田長政 が着用していた兜と、ほぼ同じ意匠の兜をご紹介します。
こちらは黒田長政の四男・黒田高政所用と伝わる『一の谷形兜』。この目を引く兜の形は、源平合戦で有名な「一ノ谷の戦」の古戦場の崖を表したと考えられています。#ColBasehttps://t.co/6OJCjzziU5 pic.twitter.com/soLJAYCplO— JAPAN SEARCH(公式) (@jpsearch_go) October 23, 2023
現在は、復元・修復したものが東京国立博物館に所蔵されています。
黒田長政の兜は福島正則と交換した?
その和解のしるしとして、お互いの兜を交換した。
黒田長政の一ノ谷型兜は、もともとは福島正則が愛用していました。
なぜ長政の所有物になったかと言うと…
豊臣秀吉からの命令で、福島正則と黒田長政はともに朝鮮出兵に駆り出されていました。
正月の酒宴の席で福島正則は、黒田家の家臣・母里太兵衛(もりたへえ)に呑み比べの勝負を挑みました。
母里太兵衛は「今、禁酒中なので。」と、頑なに断りましたが、「巨大盃の酒を飲み干したら好きな物を取らせる。」と言われたので「飲み干したら日本号が欲しい。」と伝えたのです。
境内にある母里太兵衛像。
黒田二十五旗の一人、長政の命を受けて福島正則に使いした時、禁酒の太兵衛が大杯の酒を自若として飲み干し、太閤秀吉より拝領の福島家家宝「名槍日本号」を持ち帰った話は有名です。
像の下には「黒田節」の歌詞が刻まれています。#光雲神社 #西公園 pic.twitter.com/ik1Q1rEceV— 光雲神社 (@terumojinja) December 16, 2021
日本号とは、太閤殿下から譲り受けた福島家・家宝の名槍です。
母里太兵衛は巨大盃に注がれた酒を一気に飲み干し、日本号の槍を手に入れて引き上げて行ったのでした。
ここからは予想通り…という感じなのですが、翌日 酔いが醒めた福島正則は狼狽します。
「大切な家宝の槍を取られるなんて…もう武士の二言など関係ない!」と言わんばかりに、黒田長政に説得を依頼しました。
しかし、長政は「武士の約束だから」と完全拒否します。
なかなか諦めきれない福島正則と、断り続ける黒田長政。
なかなか話し合いは進展せず、2人の関係は悪化の一途とたどりました。
そんな2人の不仲を解消できるのは、両者の恩人でもある竹中半兵衛です。
しかし、すでに亡くなっていたため、従兄弟の竹中重利がケンカの仲裁をおこなうことになりました。
重利の仲裁によって、両者は無事に和解へと至りましたが、当時は武将同士で贈り物をする習慣があったため、福島正則と黒田長政は和解のしるしとして、お互いの兜を贈り合うことにしたのです。
そこで黒田長政の大水牛脇立兜 と 福島正則の一ノ谷型兜 のスペアを作って交換したと言われてます。
もともと黒田長政が所用していた水牛の兜はこちら!
おはようございます!
本日は黒田長政公の誕生日ですね。
黒田長政公といえば「一の谷の兜」が有名ですが、実は福島正則公と兜を交換しており、関ヶ原の時に正則が被っている兜が長政の兜で、長政が被っている兜が正則の兜なんですよね。忍屋天保山マーケットプレース店、本日も元気に営業致します! pic.twitter.com/ZCYRZRCCap
— 忍屋:天保山マーケットプレース店 (@shinobiya_tenMP) December 3, 2019
水牛の角をモチーフにした兜の由来ですが、当時 ”水牛は聖なる動物”であり、悪を調伏する大威徳明王の乗り物であることから武将に好まれていたそうですよ。
一の谷兜は、元々は竹中半兵衛の物だった?
さらに一ノ谷形兜にはエピソードがあり、豊臣秀吉の天下取りを支えた名軍師である竹中半兵衛は、実は黒田長政の命の恩人でした。
長政は幼少の頃に織田信長の人質として、豊臣秀吉のもとで過ごしていました。
織田家の重臣・荒木村信が反旗を翻した際に、様子をうかがいに行った父・黒田官兵衛がなかなか戻って来なかったため、信長は官兵衛が裏切ったと思い込み、息子・長政は処刑を命じられたのです。
この絶対絶命の危機を救ったのが竹中半兵衛でした。
「黒田官兵衛が裏切るはずがない」と確信があった半兵衛は、信長に「処刑した」と嘘の報告をし、自分の居城に長政をかくまいました。
黒田長政にとって竹中半兵衛は命の恩人となったのです。
この竹中半兵衛が愛用していた一ノ谷形兜が、彼の死後に福島正則に伝わったと言われてます。
そして朝鮮出兵後に、福島正則の一の谷形兜と黒田長政の大水牛脇立兜を交換したというわけですね。
そして関ケ原の戦いでは、お互いに交換した兜を被って戦場に臨みました。
一ノ谷形兜にここまで深いエピソードがあったとは。
まとめ
- 黒田長政の愛用する兜は、一ノ谷形兜。
- 源平合戦の一ノ谷の戦いで、源義経が平氏に奇襲を仕掛けた「鵯越の逆落とし(ひよどりのさかおとし)」の崖が、兜のモチーフになっている。
- 一ノ谷形兜の元々の所有者は竹中半兵衛だった。彼の死後に福島正則に受け継がれ、黒田長政の元へ渡った。