徳川家康は読書家で本が好きな理由は?どんな本を読んでたの?

徳川家康は読書家で本が好きな理由

戦国乱世を制して天下人となった徳川家康。

徳川家康には、織田信長や豊臣秀吉のような生まれ持ったカリスマ性は無かったと言われています。

しかし、家康には2人には負けない強力な武器を持っていました。

それは”本”です。

どんなことでも「本を手本にすれば何もかも安泰だ。」と考えた家康。

戦場でピンチに陥ったときも、本から得た知識で見事解決したり、本の教えを実践することで天下人へと駆け上がっていきました。

 

でも家康は、一体なぜそこまで本が好きになったんでしょうか?

何かきっかけがあったのか気になります。

そこで今回は、徳川家康の読書愛について見て行きたいと思います。

  • 徳川家康が本が好きな理由
  • どんな本を読んでいたのか
  • 本の知識で戦に勝った話

これらについて見いて行きます。

 

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徳川家康は読書家!本が好きな理由は?

道理を諭ししらんとならば 書籍よりほかにはなし 仁政の第一なり

(世の物事がどうあるべきかを教え、あるいは知るには本しかない 優れた政治を行うもっとも大事なことである)

引用:東照宮御実紀より

 

徳川家康は戦国大名の中でも、一位、二位を争うほどの読書マニアだったと言われています。

本が大好きになったきっかけは、幼い頃に一冊の本に出会ったことから始まります。

 

天文11年(1542年)家康は、三河の国(現在の愛知県岡崎市)に生まれました。

幼名は竹千代。大名 松平家の跡取りとなる待望の男の子でした。

しかし当時の松平家は力がなく、隣国の織田家か今川家に従わなければ生き残れない状況でした。

竹千代はわずか8歳で今川家へ人質に出されます。

 

天文18年(1549年)竹千代8歳の頃、駿府にて人質としての辛い生活が始まると思っていたところ、竹千代の前に今川家の郡司 太原雪斎が現れました。

雪斎「知恵をつけ、見分を広げるのじゃ。さすれば身も心もあたたかくなる。」

竹千代「僕はただの人質です。それでもそんなことができるのですか?」

雪斎「できる!本を読み学問に励め。それならばここでもできよう。」

雪斎は竹千代に学問を学ばせて、将来今川家の役に立つ人材に育て上げようと考えていました。

竹千代は本と出会い、故郷を離れた寂しさを紛らわせるかのように本にのめり込んでいきました。

 

そんなある日、竹千代は本の中にヒーローを見つけます。

吾妻鏡(あずまかがみ)という鎌倉幕府の歴史書で、竹千代は鎌倉幕府を開いた源頼朝の逸話に魅了されます。

源頼朝がまだ幼いころに、父親が平家の統領である平清盛に敗れました。

源家の親や兄などの一族が殺されるなか、頼朝は死罪をまぬがれ、伊豆に流されます。

しかし20年後、頼朝は兵をあげて平家を倒して天下をとったのです。

竹千代「源頼朝かっこいいな~」

 

源氏が平氏に負けて、頼朝が伊豆に流される場面は、竹千代が今川家で人質生活をしている様子に似ていました。

島流しに遭っても、めげずに頼朝自ら天下を取った姿がかっこよく見えたのです。

竹千代は、そんな源頼朝を人生の目標に掲げたようでした。

雪斎「ならば、いずれは頼朝公のように天下を取るか?」

竹千代「はい!私も。いえいえ私なんかにはとても…」

雪斎「よいよい志は大きく持て。」

竹千代「お師匠様。本で戦のやり方を学びたいのですが」

雪斎「兵法の本を貸してやる。ついて参れ」

 

静岡市にある臨済寺は、竹千代の師匠 太原雪斎が住職を務めた寺です。

竹千代は4畳半の部屋で、雪斎の教えを受けながら兵法を学びました。

『司馬法 季衛公』『尉繚子 三畧』『六韜』

兵法の本には、兵の動かし方だけではなく、大将としての心構えが書いてあります。

 

竹千代はこうした本はもとより、儒学や易学、医学などの本への興味を広範囲に広げていきました。

雪斎はそんな竹千代を「後日大鵬の雄飛(将来大活躍するだろう)」と褒め称えたという記録が妙心寺史にて伝えられています。

やがて成長した家康。

その評判は松平家が慕う今川義元にも伝わり、有能な武将として今川家に取り立てられることとなりました。

 

永禄3年(1560年)家康が19歳の頃、桶狭間の戦いで今川義元が25,000もの大群で織田信長を攻めました。

この戦いで家康は、今川軍の戦法として重要な任務を任されます。

それは最前線にある味方の城に兵糧を運び入れること。

しかし目的の城は、敵の砦に囲まれて近づくことができません。

 

困った家康は兵法の本を持ち出しました。

「利而誘之(強い敵には餌を与えて、敵を罠にかけよ) 孫子より」

そう書かれているのを読み、まず家康はおとり部隊で織田方の砦の一つを攻めます。(←これが餌)

それを見た織田方はピンチだと思い、助けに向かいます。

すると味方の城の包囲は手薄となりました。

兵法で罠にかける作戦は大成功。悠々と兵糧を運び込みました。

これで味方の勝利間違いなしと思われましたが、ここで信じられない知らせが…。

 

大将・今川義元が桶狭間の戦いで戦死し、総崩れとなり、味方は一斉に大局をはかりました。

気が付いたときには家康は敵中に孤立し、絶対絶命のピンチを迎えました。

家臣が「もう終わりじゃ…」と焦るなか、家康は冷静に生き残る方法を考えます。

「圍地則謀 (囲まれてる時はやみくもに抜け出そうとしてもダメだ。敵の意表を突く計略が良い)孫子より」

と、本に書いてあるのを見つけてひらめいた家康。

 

この時、家康には捕虜にした織田方の武将がいました。

そこで家康がひねり出した計略とは、怪しまれないように捕虜の武将を先頭に立たせて、敵の中を堂々と退却する手段に出ました。

まさに意表を突いた作戦で見事難局を乗り切ったのです!

そして家康は「生きて三河に帰ろう」と、家臣たちを奮い立たせたのでした。

 

家康はこれを機に、自分の故郷・三河に戻りました。

仕えていた今川義元は亡くなったので、これからは独り立ちした戦国大名として自分の身は自分で守らないといけません。

家康はこれまで学んできた知恵をすべて活かし、乱世を生き抜いていくことになるのです。

人質の身から戦国大名へ!その陰には本の力があったのですね。

 

天正元年(1573年)32歳の頃に、家康の元に武田信玄が亡くなったとの知らせが入りました。

戦国最強と恐れられた武田信玄は、家康の隣国の大名でした。

これまでも何度も攻め込まれて屈辱を味わってきました。

その信玄が突如この世を去ったと聞かされたのです。

 

「信玄のいない武田など怖くないわ」「徳川最大の敵が消えました。誠におめでとうございます。」と家臣たちが喜ぶなか、徳川家康は中国の哲学書『孟子』に書かれている言葉を思い出します。

「無敵國外患者國恒亡然(敵や心配ごとがなくなると国は滅びる)

今は喜んでいる場合じゃないと思い立った家康は、家臣を叱りました。

「何がめでたいのだ。敵の信玄殿が亡くなったということは、実に悲しいことだ。信玄みたいに偉い大将がいたから、わしらはいつも慎重で武芸に励んで政治にも真面目に取り組んだ。わしらも武士の端くれなら、そんな立派な敵の死はちゃんと悼んであげなくてはいけない。喜ぶなんて、もっての外だ。」

「敵がいなくなったのに喜ぶな」…だなんて、家臣はさぞ戸惑っているかと思いきや、家臣たちも賛同しました!

家康の敵への心遣いは、意外にも家臣の心を鷲掴みにしたのです。

この一件から、家康の訓示は、もっぱら本からの引用がお気に入りとなりました。

 

武田信玄の死から2年後の天正3年(1575年)の34歳の頃、家康は当時同盟国だった織田信長とともに武田家との決戦に臨みました。長篠の戦いです。

その後、武田家は滅亡。

織田信長は武田信玄の後継ぎである武田勝頼の首をさらし、「首を見よ 心地よき (東照宮御実紀より)」と嘲笑ったと言います。

このことは武田家の家臣たちの耳にも入り、信長は恨みを持たれたのでした。

後に本能寺の変で織田信長が亡くなると、恨みにかられた武田の家臣たちは一斉に蜂起し、信長が派遣していた猟師たちを一掃してしまいます。

 

その一方で家康は、「報怨以徳(恨みには徳をもって報いよ) 老子道徳經より」という中国の哲学書の教えを読み、「恨みでやり返しても仕方がない。あたたかい気持ちでお返しした方が良いことがある。」と考え、家康は勝頼の首をもらい受けると、早速その教えを実践しました。

「あなたの父親の信玄さんには、色んなことを勉強させてもらいました。その子どものあなたがこんな風になってしまったのは、あなたのせいではありません。天が味方してくれなかっただけです。どうか成仏して下さい。」と、悼み手を合わせたそうです。

これには武田の家臣たちも大感激。

家康の振る舞いに心を打たれた家臣たちは、「これから生涯、家康様に仕えます」と頭を下げに来たのです。

家康は、かつての武田家の家臣千人あまりを難なく家来にしてしまったのです。

武田を滅ぼした後も武田の家臣を取り込んだり、人を活かして使うという信念は本から学んだようで、先人が書いた本を読んで自分なりの判断を下したのだと言われてます。

 

さらにその後の領国経営でも本の知恵は大活躍します。

徳川家の記録によれば、家康が領地をおさめるときの方針は「政(まつりごと)は人心を得るにあり 東照宮御実紀より」と書かれていますが、実はこれは論語から引用したものだと分かっています。

「政(まつりごと)を為すに徳をもってす 論語より」

徳によって政治を行えば人々は自然と従う。という意味です。

 

家康は、新しい領地を手に入れると、この教えを実践します。

領主が変わって不安がる領民に対して、家康はお触れを出します。

前の領主が作った掟や制度は変えず、しかも税はもっと安くしていました。

これには領民も大喜び。

「今度領主になられた家康様は、なんと領民想いなお方だ。ありがたい。ありがたい。」

こうして家康は本で学んだ教えを度々実践することで、家康はやがて「名君」と言われるまでになります。

 

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徳川家康はどんな本を読んでたの?

徳川家康の本好きは当時から有名で、戦国一の本のコレクターだったと言われています。

家康が亡くなったあとに、尾張徳川家が譲り受けた合計2826冊の本を記録した御書籍目録によると…

治平要覧
朱子大全
杜氏通典
北史
群書治要
求仁録
漢書板
聖訓演
玉壺氷
狂雲集
廣皇輿考
讀書要語
毛詩大全
毛詩匠義
毛詩集
孟子集
周馬考変
周馬啓蒙
周馬坐義
春秋匠義
中庸或向
大學或向
論語或向
朱子大全…など

こちらの目録に掲載されている約8割が中国や朝鮮半島から伝わった漢籍となります。

目録に記された蔵書のうち、もっとも多いのが儒学に関する本です。今で言う政治学や哲学の本になります。

戦国大名と言えば、兵法の本を読むイメージがありますが、家康は戦いの方法よりも政治や哲学を重んじる人だったようです。

 

ほかにも『源氏物語(河内本)』全巻も持っていたそうで、ステータスシンボルとして集めていたのではないかと言われているそうです。

また『三国志伝通俗演義』の中国で出版された本も読んでいたそうです。

哲学書ばかり読んでいる人と言うと、なんだか構えてしまいましたが、源氏物語や三国志も読んでいたと聞くと家康を身近に感じますよね。

 

慶長5年(1600年)家康59歳の頃、天下分け目の関ヶ原の戦いで勝利をおさめます。

天下人となった家康は、長年あたためてきた夢を実現しようと動き出します。

それは日本一の図書館を作ることでした。

家康は国中から優れた書籍を買い集めました。

さらにせんだんで衰えた鎌倉幕府ゆかりの図書館『金沢文庫』の本も自分で管理するようになります。

 

また公家や大名から献上された本も数多くありました。

中国や朝鮮伝来の本も収集し、家康の蔵書は一万冊あまりになりました。

こうして集めた本は側近たちも読めるようにしました。

 

さらに家康は、公家や僧侶などの一部の人が独占してきた貴重な本を写させます。

写しは三部作られ、

  • 朝廷
  • 幕府
  • 家康の図書館

におさめられました。

万が一、火災に遭ったりしてもいずれか一冊が後世に残るように考えられた書籍の保護策です。

 

そしてもう一つ、家康の図書館には大切な役割がありました。

ここに集められた国内外の政治や法律の本を参考に、国をおさめる新たな法律を作ることです。

家康の命によって始まったこの取り組みは、のちに大名たちの軍備を減らす「一国一城令」や全国の武士をおさめるための「武家諸法度」として実を結びました。

 

ところが本の知恵だけでは解決できない難題が家康の前に現れます。

それは先の天下人、豊臣秀吉の子どもの豊臣秀頼の扱いについてです。

家康が徳川幕府を開いた後も、豊臣家の意向は依然として健在でした。

「天下をとったと言っても、まだ大阪の秀頼を慕う大名はたくさんいる。やっぱり豊臣家は滅ぼさないと…。と言っても、目障りという理由だけで秀頼を倒しても良いのだろうか。」

これまで本の教えに従い、行動してきた家康。

亡くなった敵は褒め称え、敗者には情けをかけ、領民に対しては得を示してきました。

ただ邪魔な存在だからという理由で、秀頼を攻め滅ぼすことは、これまでの信念に反するおこないです。

 

家康は側近の学者を呼び、どうするべきなのか尋ねました

すると…

「天下のために暴悪を除くことは善であって、悪ではない。 東照宮御実紀より」

「私利私欲のためではなく、天下のための戦であるので、ただちに決断をすべきだ。」と言われたのです。

 

でも秀頼は人気があるし、悪い奴ではないからな…と悩む家康。

今まで頼りにしてきた様々な哲学の本をめくりますが、満足のいく答えが見つかりません。

家康は自分の信念と現実の狭間で苦しむのです。

 

しかしあるとき、急に一冊の本のことを思い出しました。

それは幼少期に読んだ、源頼朝について書かれた『吾妻鏡』の本でした。

一度は源氏を倒した平清盛は、幼い頼朝を殺さずに伊豆に流しました。

そして25年後に平家は頼朝によって滅ぼされてしまいます。

 

家康は、頼朝が平家の天下をひっくり返したことに気づきます。

油断した清盛が、変に情けをかけて頼朝を助けたからだと。

天下を鎮めるには敵に変な情けは無用であると気付いたのです。

長期安定政権を最優先に考えた場合、豊臣家を残すのは得策ではないと判断します。

慶長20年(1615年)家康74歳の頃、大坂夏の陣で家康は15万以上の大軍で大阪城を攻めて、ついに豊臣秀頼を滅ぼしたのです。

 

 

話は戻り、家康が江戸城内に作った図書館は、その後も蔵書は増え続け、幕末には11万冊以上になりました。

江戸時代を通じて家臣たちに広く貸し出しを許可されました。

 

そんな家康ですが、ほかにも図書館作りに負けないほど情熱を傾けたものがありました。

それは本の出版です。

論語や史記、孟子などの60以上の書籍から政治をおこなう上で参考になる言葉を抜粋した『群書治要(駿河版)』を作りました。

家康はこの本を出すために最新の印刷技術(駿河版銅活字)を導入。

できるだけ多くの人に本を読んでもらいたい。それが家康の願いでした。

 

この家康の夢は8代将軍の徳川吉宗によって引き継がれました。

吉宗は、庶民に読み書きを教えるための六諭衍義(りくゆえんぎ)という本を出版し、全国の寺子屋で教科書として使われました。

 

こうした取り組みのおかげで、江戸時代の日本は世界有数の識字率を誇る国となり、誰でも本に親しむことができる世の中が訪れました。

やがて庶民自らも本を出すほど、空前の読書ブームが巻き起こるのです。

生涯にわたって本を愛し続けた徳川家康が残した言葉があります。

「世の物事がどうあるべきかを教え あるいは知るには本しかない 徳川御実紀より」

「物事の正しい筋道をみんなが分かれば 世は治まり  戦いがおきる事はない 徳川御実紀より」

読書により、天下をとった徳川家康の読書愛が伝わるエピソードの数々でした。

 

余談ですが、高濱正伸先生著書の『マンガでわかる!10才までに覚えたい言葉1000』に興味深い話が掲載されていました。

社会で活躍している30~40代の人に聞き取り調査を行ったところ、全員が幼少期頃以降のタイミングで読書にのめり込んだ経験があるのだそうです。

家康が読書家であると知ったときに、”読書をすると出世する” というエピソードが頭に浮かびました。

読書をすることで人生が大きく変わるほど、自分の生き方に良い影響を与えてくれるんですね。

 

ゲッターズ飯田さんの本にも「本を読むと成功する」といった事が書いてありました。

徳川家康を見習って、読書量を増やしていきたいですね!

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